【行為∞思考 Act∞Thought】の本文の後半一部。英語への自動翻訳用の続きです。

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木下以知夫 Ichio Kinoshita(彫刻)
私は夜に出かけていったので「行為」には立ち会っていないのだが、木下における「行為」の重要性とは自身が記しているように「この”物・場”にオルコトの重要性」ではなかろうか。
「人工廃物」と呼ばれる打ち捨てられたものが会場の床面を埋めている。なかでも目には入ってくるのはガードレールである。木下はこのガードレールを叩いたり眺めたりしているという。私が訪れた折りにも木下は会場に立ちガードレールをはじめとした「人工廃物」を眺めてもいた。
手が加えられていない、というのではない。木下によって焼かれた複数の100円ライターは、一個ずつ10センチ四方の木箱に入れられ展示されている。このライターは木下の「家の身辺にゴロゴロあったモノの一つ」であり、「いつ、どこで、どんなふうに焼いたか」もすでに記憶にないという。
「モノ」のほうから語ってくるのを待つ、というのでもない。「人工廃物」はゴロっとあり、ポツンとあり、人が関係を持てるものでもないというふうなのだ。木下はそうした「モノ」の在り方を「絶対的コリツ」とも記している。さらにはこのような「一個物」の「マッサツ」の場を広島のゲンバク(ヒロシマの死)」として見ている。
「モノ」なるものが、事前に存在しているのか、事後に存在しているのか。どのように思念するかによって、「モノ」の捉え方は変わってくるだろう。木下が近代・彫刻・作家であるとすれば、近代・彫刻・作家にとって、「モノ」とは事前に存在するものではない、といえる。近代・彫刻・作家にとって、「モノ」のモノ性とは事後に見い出すもの、見い出してしまうものではないか。木下の文章はこうした「モノ」と断絶することで見いだされるモノ性についての記述であるようにも思われる。
しかし、「人工廃物」もまた、人に使われた「後」で捨てられたものだろう。その意味では廃物を事前に見い出すことはできないのだが、「すべては人工廃物である」とするならば、その地平以後に私たちがいることになる。そこでは廃物もまた事前に存在している。
だがしかし、これやはりは仮構されたメタフィジカルな視点であり、そのことでなにがしかの対象を批評するという契機なしには、まさに形而上的な思念となるだろう。
木下の位置は、私には定かではないのだが、彫刻家の思考というものを感じないわけにはいかない。木下にとって行為とは「モノ」とともに唯ある、ということなのかもしれない。


水野稔也 Toshiya Mizuno(演劇を参照したパフォーマンス)
「演劇を参照したパフォーマンス」は、公演当日「演劇の上演」と改められていた。しかし、どうしてこうもややこしい言い方になるのか。どうして芸術領域にこうも拘るのか。それはなぜ芸術領域を肯定するという表現をとらないのか。なぜ、かくも脱−芸術、反−芸術というような表現をとるのだろうか。こうした試行=思考と錯誤を「演劇を参照したパフォーマンス」改め「演劇の上演」は、くぐり抜けてきただろうか。
「断片化されたテクストをMDでランダイム再生」し、左右にチャンネル分けされたテクストにも異なる身振りが割り振られており、事前に決められたことが上演ではただ実行されているようだ。事前に決めたことを文字通り実行する、という在り方にリテラルな思考が認められる。リテラルな思考は必ずや行為を肯定するだろう。行為を肯定する態度は極めて歴史的な態度である。つまりそれ以前の、行為をモメントとして考慮してこなかった芸術を否定することになるのだから。
この公演タイトルは「右耳と左耳の上演」とあり、「劇場内部における主体性について」とサブタイトルがある。また水野は、行為を演劇における「俳優の行為」に限定するという趣旨を文章に書いている。演劇における「俳優の行為」は、それ自体すでに「俳優の行為」であるのだから、以前の演劇の「俳優の行為」を否定する契機を内部に持っていない。否定する契機を持つためにはリテラルな思考が不可欠であると同時に、内部に契機を持たない「俳優の行為」を、上演/表象/代行ではないとするためには、どうしても外部性の刻印が必要となる。それは劇場の外という視点として存在するだろう。そうした劇場の外部という視点を隠蔽するために「劇場内部」が想像的・再帰的に設定される。「劇場内部」という言い方がこのように再帰的な想像物かもしれないということを忘れてはならない。
このような外部の内部化は、いたるところに見い出される。外面の内面化、西洋の日本化などがそうであり、内部と外部の衝突によって生じる危機を回避するものとして機能する。だが、危機は回避されたとしても無くなったわけではなく、外部にはあるはずの「真の」主体性が、この内部においては危機に瀕していると強迫的に想像される。それゆえ主体性の立ちあげや回復が、この内部に存在するであろう「本質」に基づいて目指される。これが「エッセンシャリズム」=「本質主義」といわれるものである。
ある局面では「主体性などない」という必要があるはずだが、それは公に奉仕する私という「滅私奉公」的なものでは決してない。もし行為になにがしかの意味があるとすれば「主体性などない」のに、そこに行為があるという、その在り方を見い出したときではないか。俳優の演技とは、そうした在り方を切り出そうとするところにあるといっていかもしれない。
内部/外部、客体/主体、女/男、日本/西洋というような二項対立図式自体が専ら悪いというのではないし、またこの対立を単に破棄するのでも十分ではないだろう。この二項対立図式が繰り返し生み出す関係的事柄を書き換えていくことが求められているのではないか。
私はだいぶ遠回しに言ってきたかも知れない。それはこうなのだ。この企画[行為の現場から/行為∞思考]において西島の提起する行為から最も遠いのは「俳優の行為」であると思うのだ。だからこの企画と一切交わらないとする「俳優の行為」がなされてもよかったはずなのだ。これは行為の文脈からではなく、演劇の文脈から言っている。水野が「演劇を参照したパフォーマンス」から「演劇の上演」と改めたことの意味は、そこにしかなかったはずではなかろうか。


岡崎豊廣 Toyohiro Okazaki(音)+清川桂史 Keishi Kiyokawa(映像)
岡崎の活動の中心はディスロケーションというノイズバンドである。清川もそのメンバーである。岡崎はサンプリングマシーンを使い、事前にサンプルした音を現場でカットアップする。それは音を構成したり組み立てるのではなく、むしろ散乱させる、というものに近い。だからこそノイズバンドなのである。ディスロケーションのそうした音楽の在り方に私はいつも共感を持ってきた。即興というコンセプトや現代音楽というある種の前衛へ傾くこともなく、またポピュラーな音楽という後衛へ傾くこともない。ただただノイズバンドというロック的在り方に留まり続けている。ディスロケーションはバンドである、という単純な規定。だが、その内実は単純ではない。清川はビデオを操作し、その他のメンバーもギタリストとサックス奏者という構成である。にもかかわらずノイズバンドという領域に留まり続けることのもたらす自在さがあるように私には思われるのだ。それは岡崎と清川の二人だけであっても変わらない。
清川は、以前はパフォーマンスといえる行為を行うこともあったのだが、現在はビデオの投影が主であるようだ。映像は身体の部位を映したと見えることが少なくない。清川自身がパフォーマンスを行うことからの移行を考え合わせてみると、断片化された身体へと関心が移行しているのかもしれない。投影は複数のビデオプロジェクターで行われるので、用意されたいくつかの映像を現場で組み合わせている。岡崎のようなサンプリングによるカットアップという形態にはならないが、デジタル映像機器が普及すれば、清川の投影方法もより拡散する方向になるのかもしれない。
私はディスロケーションの音楽の在り方に
共感を持ってきたと書いたが、こうしたディスロケーションの音楽の在り方の先に何があるのかはわからない。


古田一晴 Issei Furuta(映像)
かつて古田とともに自主映画・実験映画に関わってきた浜島嘉幸は、今回の古田の映像を「完璧なイメージだ」と語った。古田の映像をジャンル分けすれば、個人映画であり実験映画である、ということになるだろうか。三台の映写機を使い映写するという方法もとられている。具体的な風景や抽象的な画像が反復的に現れる。イメージ、表象、夢、そんな言葉が浮かんでくる。確かに、映写されたものを見ていれば、そうなのだが、映写は行為としても行われているので、映写している様子も見ようと思えば見えるのである。さらには岡崎豊廣のノイズ音、田中”もQ”茂久のサックスが加わっている。
ところで「完璧なイメージ」とは何を指しているのだろうか。ふだん私たちは映画を見るときに映画以外の何かを見ている。それは物語や情景といわれるものだろう。だが「完璧なイメージ」といわれる事態で見ているものは「映画そのもの」のように思われる。「そのもの」という言葉は誤解を招くので言い換えれば「映画という媒体」を見ているということだろう。これを見るためには、そこにイメージが不可欠である。何も写っていないものを見ることで「映画という媒体」を見ることはできない。なぜなら何も写っていないものは映画ではないからだ。逆に言えばどのような映画でも「映画という媒体」は見ることができるともいえよう。このようにどのような映画でも「映画という媒体」を見ることができるという事態を「絶対映画」と呼ぶとすれば、「完璧なイメージ」である古田の映画はそうした事態を純化した「純粋映画」と呼べるかもしれない。
「純粋映画」とは「閉じた映画」をも意味せざるをえないが、こうした「純粋映画」という事態を回避するための方策はいくつかあると思われる。その一つが「映写する」という行為なのだろう。確かに「映写する」という行為を顕在化することで、「開かれた映画」という地平に留まることができるのかもしれない。
私は、映画を光源として「行為」に光を当てると、「行為」に、また異なった陰影を与えることができるかのように記述しているが、
しかし、果たしてそうなのだろうか。こうも言えなくはないか。映画には「行為」を思考することはできない、と。


西島一洋 Kazuhiro Nishijima(体現)
自身の行為を「体現」と名付けている西島は、会期の最終日、およそ二週間に渡って使用されたギャラリーの壁を日の出から日の入りまでの時間をかけて白く塗りなおした。私が立ち会ったのは、日の入りまでの約一時間ほどであった。
中央には鉄球が吊り下げられている。壁塗り作業の合間に、時折、中央の鉄球の下に座し、棒きれで鉄球を叩く。剃髪した髪がサラシに織り畳まれており、それを広げたりまた畳んだりもする。これは意味不明の行為である、というより、むしろ意図的に無意味である行為を行っているのであろう。
ギャラリー使用後の壁塗りは現状復帰として「現実」に必要な行為であろう。この行為が意味の明瞭な極めて「現実」的な行為であるがゆえに、その「現実」的な行為を切断する行為は、最も非現実的で無意味であることが望ましいはずである。
「現実」に必要な行為と非現実的で意味不明の行為の交わりの中に、西島は自身の「体現」を成立させようとしているといえるかもしれない。「壁塗り」と「鉄球叩き」を結び付け、そして切断することで、そこで行われる行為=「体現」が単なる「芸術のための芸術」に堕さないように設らえてあるともいえるだろう。
このように記述してくると、これは「芸術としての行為」なのか、「反−芸術としての行為」なのか、という二元的な紋切り型の問いが想起される。それはまた「反−芸術としての行為」は芸術領域の境界を曖昧にしながらも、常に芸術領域との対抗が意識されており、結果としては「芸術」を補完し強化する、という定番をも想起させることになろう。もちろん西島はこの紋切り型の問いに対して、「これは体現と名付けられたものである。」という答えを持っている。だが、しかし、この紋切り型の問いが私の頭から去って行かないのはなぜだろう。
西島は自身が画布に向かって描く線にリアリティを感じることができない、それよりも暮らしの中でふと付いてしまう壁の傷にリアリティを感じる、という。ここに、もともと絵を描いてきた西島の困難があり、「画布に向かうこと=芸術」と「暮らしの中の壁の傷=反−芸術」を交差させる「体現」へ向かう契機もあるのだろうと思われるが、その思念に私は、「芸術/現実」「アート/実人生」の分離を止揚するような方向を感じているのだろう。
止揚する=解決する策を私たちは何も持っていないのではないか。つまり分離を分離のままに維持すること。西島にとってそれはどのような事態を意味することになるのだろうか。


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以上が、海上宏美氏(Mr.Unakami)の文章である。
僕の文章も加えていずれ、必ず小冊子にする。

西島一洋 Kazuhiro Nishijima


出典元:行為∞思考 ”Act∞Thought” Kazuhiro Nishijima
…出典元の参照文章:上記…

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