Yoshiyuki Hamajima

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Yoshiyuki Hamajima

この項編纂中
出典: 【行為の現場から/行為∞思考】に隣接する思考の断片として海上宏美 Hiromi Unakami 著
浜島嘉幸 Yoshiyuki Hamajima(身体表現という舞踊)
 会場の中で浜島は小さな椅子に座っている。そこに観客は入場させられる。浜島の公演においてこうした「板付」状態は珍しい。この公演が西島の依頼=プロデュースであることに対する皮肉であるとも受け取れるような始まりである。この公演を成立させている主体は、原則的には浜島ではなく、西島であることの明示か、と私は思った。それはあまりに意地の悪い解釈かもしれないが、そう解釈できる余地を残していることもまた確かなことではなかろうか。
 浜島の「身体表現という舞踊」(以下、私は踊りというが)を見ていても表象/代行という言葉はあまり思い浮かばない。表象でなければ、代行でもなく、イメージでもなければ、再現でもない。そこに人がいるというふうである。私はあるコンテクストを持って見ているのだが、こうした印象はコンテクストの発見や形成ができない場合でもあまり違わないのではなかろうか。
 舞台芸術は「分有」された主体としての他者を不特定の観客として構造化している。分かりやすくいえば主体としての演者は観客を事前に想定しているわけだが、その観客とは原則的には不特定多数であろう。それゆえ不特定多数の視線に身を晒さないこと、作品を晒さないことも、選択として認められるべきことである。もちろん浜島がそうしたことを自ら積極的に選択しているというわけではないだろうが、不特定多数という観客の在り方が、かえって表象文化における表象を維持しているといえなくはない。時間性に基づいて形成された特定の共同性の中では、表象は一目瞭然という形象を伴って徴付けられるのであろうから、そこでは表象を言う必要はない、というより表象は成立していないというべきかもしれない。
 「枠付けられたもの」を前提として、不特定多数性(もちろん他者性といってもいいのだが)が構造化されていることに由来することとして表象は語られる。
 身体もまた「枠付けられたもの」であるのだから、表象されているものあるとは思われるが、それは浜島自身を離れているので、表象を問題化すべきような事態であるとは感じられない。浜島の踊りにおいて、他者をどうこうしようという思惑は絶縁されており、常に他者とはこの自身のことなのだ、という思考と佇まいが徹底している。自身が他者なのだから、いわゆる他者と通底している、あるいは自己の主体が分裂しており、分裂した自己における他者は「分有」という在り方で他者と主体を共有しているのだろう。そうした思考の徹底性が、表象の問題化という事態を回避しているようにも思われる。
 しかし、思考の徹底性ゆえに、行為が腑に落ちるというのであれば、思考と行為が実は不可分だということでもある。この言い方は何がしかの詐術があるように思われるが、しかし、実は思考と行為が不可分であるのは当然であり、可分であるとするのは、西洋形而上学的な思考ではなかったか、ということもできよう。その日の天候一つで気分は変わってしまうものであるし、晴れた日は気分が良く、雨の日はいささか憂鬱になるのは、不思議なことではない。もちろんこうした在り方が「正しい」というつもりはない。しかし、有用な参照項ではあるはずだ。身体とは空気を呼吸するのであり、その呼吸を通じて眼前のものと通底しているといえなくはないのだ。ここで注意したいのは、眼前のものとの通底と似ているが異なるものとしてのアウラである。超越的なるもの=聖なるものとの呼吸を通じての通底が放つ輝きをアウラと呼んできたということだ。眼前のものに留まることと聖なるものと通底することは違うはずだ。聖なるものとは通底せずに、しかし、「枠付けられた」身体にまとわりつく何か。それはアウラと呼ばれるものではない。こう記述してくると、それは平面におけるイマージュに限りなく近いもののように思われてくるが、そうしたものへの回帰とか還元という言葉で語ればよいものではないだろう。
 確かに浜島の踊りにおいて、「枠付けられたもの」=媒体を通して、無媒介的なもの=イマージュが現れるという逆説は成り立っていると思われるし、それゆえ、コンテクストの有無も問わないとも思われるのだし、それはそれでよいのだが、このような非歴史的記述を促す歴史的視点とはいったい何なのだろうか。
 何年も前から浜島を見ているが、飽きるということがない。踊りに大きな変化もなく、目新しさなどもなく、いつも同じようなのだが、飽きるということはない。繰り返し同じものに立ち会っている、といってもいい。こうした反復的事態にこそ、固有性や単独性が現れるといってもいいのだし、舞踏などに見られる「本質主義」から最も遠いという形容もできるだろう。
 だが、それは何を対象として対抗的に形成されているのかを忘れてはならないだろう。これは浜島に対してではなく私自身への言葉である。


その他の参考資料:
資料その1:聴くものの眼 〜 クアトロ・ガトス“t,a-blanc”より:浜島嘉幸(身体表現)
資料その2:斎藤亮人日記:5月25日(日)
資料その3:パフォーマンス評:AZERTプロデュース「真空のための偽肢」〜浜島嘉幸パフォーマンス:宮田優子:初出 2003年9月七ツ寺共同スタジオ発信季刊批評誌11号
資料その4:"難度海雑纂 imageopera log reel" より:浜島嘉幸+クアトロガトス
資料その5:『空間の祝杯 ― 七ツ寺共同スタジオとその同時代史』■編集=浜島嘉幸 ■発行=二村利之、七ツ寺演劇情報センター
資料その6:著作物/浜島嘉幸著/「雨を嗅ぐ」を解題する



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